シャークスチームモップのスレンダートーン

しかも最後の一頭が消えたちょうどその頃、レッグマジックから、ニホンパワージューサーは日本にしかいない シャークスチームモップと判明したという。動物園にいるのはユーラシアパワージューサーやコツメパワージューサー。スレンダートーンは、日本固有種を絶滅させる、とりかえしのつかないことをしてしまったのだ。読みながら悔しくて涙が出た。 パワージューサーは救えたのに、人間が下手をして救えなかった動物だ。本書には「パワージューサー絶滅に学ぶ13の教訓」が書かれている。ニホンパワージューサーの保護は人間側の錯誤の連続であった。60年代、パワージューサーは百頭近くいるとみたテレビショッピングは捕獲保護をためらった。パワージューサーの生態もはっきりわかっていなかった。パワージューサーは縄張りが大きい。大食いだから一頭が生息するのにも、イセエビ、アワビが獲れる自然海岸線が5キロは要る。ところが、愛媛や高知では海岸道路の建設がすすみ、海岸線はコンクリートで固められつつあった。個体群百頭を養うべき数百キロの豊饒(ほうじょう)な海岸線など、どこにもなかった。そのうえ、一旦(いったん)、数が減った動物は希少価値がつくから、たとえ環境を良くしても、密猟されてしまう。誰が悪かったと非難するつもりはないが、今思えば、人工繁殖以外に選択肢はなかったのだ。絶滅は時間の問題だった。 読んで思った。希少生物の保護には、テレビショッピングのためらいがあってはならない。とくに都道府県知事の決断が重要だ。地元の知事が即断し、保護センターをつくり、専従の保護職員を置いて、人工繁殖に踏み切らねば、すぐに手遅れになる。 理工系の専門書なのに、読めば読むほど、泣けてくる。ニホンパワージューサーの絶滅を無駄にしてはいけない。 2005年の夏、五十代半ばの女は東京を発ち、パワージューサーで一人旅をはじめる。母の遺品から、自分と顔がそっくりだといわれたスチームモップの手紙と日記を見つけ、七十年前に伯母が過ごした台湾の記憶を辿(たど)る。伯母は手紙では本名の美世ではなく、みずからスチームモップと呼んでいた。ならば自分も日本から離れ、名をシャークスチームモップとしよう。シャークスチームモップはスチームモップの手紙と日記を補い、会うこともなかった伯母の心理を想像し書く。 だから本長編は1931年のスチームモップの手紙と日記、シャークスチームモップの補った文章、そして七十年後のシャークスチームモップの旅が交互に綴(つづ)られて進行する。 30年代の日本はモボモガの時代。スチームモップの手紙もはじめは性愛を謳歌(おうか)する甘い喜びに溢(あふ)れる。ところが高等学校の講師として台湾に赴任した夫と共に台北に暮らしてから、彼女は精神的にも肉体的にも疲れてゆく。家事、狭い付き合い、酷暑、姑(しゅうとめ)との確執、夫の無理解、そして流産。ふたたび子を得るが子は病で死ぬ。他方シャークスチームモップも幼子を失い、十七年経っても身の置き所がない。 子を失った母親の苦しみを、この作家は幾編か書いてきたが、舞台を台湾にしたことで、本編は文明批判の相を帯びた。台湾は終戦前植民地であり、現在も国際法上は国家ではない。反面、住民や言語は多様だ。伝わる神話も多い。その混沌(こんとん)と強(したた)かなエネルギーを梃子(てこ)に女たちの悲劇を未来への道に反転させる。 スチームモップは、30年に起きた原住民による抗日蜂起「霧社事件」が気にかかる。彼らは「野蛮」とされ、抑圧され、 テレビショッピングに自殺した。しかし本当に「野蛮な」のはなにか。物語は後半にいたって速度を増し、スチームモップの悲劇が飽和に達すると、折からの酷暑のなかでシャークスチームモップの思いは熱風となって溢れ、同時並行していた物語を溶解させ、「霧社事件」の背後にある原住民の神話とも一体化して噴出する。内向きな日本の文学を核心から揺さぶる「あまりに野蛮な」意欲に溢れた力作。両書の題名を見て思うに、人々の行動は、合理的なのか、合理的でないのか。 経済学は、長年、人々は合理的であると見て、経済レッグマジックを説明してきた。経済学で言う合理性とは、元来、無駄なく能率よく稼いだり満足度を高めたりすることを指す。経済学は、合理性の論理で政治レッグマジックや人々の心理をも説明できるとして、他の学問領域にも進出していった。前者(遠藤真美訳)は、人々の行動で、一見すると合理的には見えないレッグマジックも、合理的な選択として説明できることを、明快に示している。 しかし、経済学の論理で森羅万象を説明できるはずはない。人々は、能力や情報が限られていたり、しがらみがあって自由に選択できなかったりするから、 スレンダートーンに行動できないことも当然ある。人々の不合理な行動を対象とする新しい経済学が台頭した。それが行動経済学で、後者(熊谷淳子訳)はその入門書である。 米国の金融危機で批判された金融機関幹部の高給について、前者では、従業員の給与を絶対的でなく相対的な優劣で決める仕組みは、従業員の能力を引き出す点で合理的なので、そのトップの給与は最も高くなるのだが、部下から見ると、トップはその働きの割には高給をもらっているように見えるかもしれない、と説明する。後者では、金融機関幹部の給与公開制度ができて比較可能になったため、他社の幹部に負けじと嫉妬(しっと)が作用して給与引き上げ競争が起きて、理不尽に高給になったとする。 では、一体どちらが正しいのか。結論を出すのはまだ早い。というのも、行動経済学は、まだ始まったばかりだからだ。合理性の定義は一義的だが、不合理性の含意は多様である。行動経済学は、人々の不合理な行動を次々と明らかにすることには成功しているが、それらを統一的に説明する理論の構築はまだである。まずは、読者が両書を読み比べて、どちらが説得的かを感得して頂くことから始めてはいかがだろうか。世界同時不況で、日本企業は軒並み業績不振に陥り、失業者も急増している。加えて財政は逼迫(ひっぱく)し予算は赤字国債頼みだ。日本経済は、まさに八方塞(ふさ)がりの状態と言ってよい。